2022年7月20日

夏旅 2022 「それが作品になるかどうかは別として」

旅が終わってしばらく、撮りためた写真を整理していくなかで、「現象としての神さま」に出会っていたことに、ふと気づかされる。それらは寺社の暗がりに鎮座する「形としての神さま」たち、つまり神鏡や仏像よりも、輪郭があやふやで、おぼろげな記憶のかすみにすぎず、決して自分から声高に名乗りでることがない。

偶然のいたずらと片付けることもできるし、夢想家のこじつけだと一笑にふすことも簡単だ。実際そうなのだろうが、私は大暴れする濁流に、猛り狂うヤマタノオロチを見たがるほうの人間なので、素直にうれしがるし、なんだか得した気分にもなる。



旅の始まりは、諏訪大社の上社前宮。および藤森照信氏の、土の香りがするプリミティブな建物群。そこから気まぐれに、翌日泊まる宿を毎日決めつつ、北陸方面に足をのばしたのだが、その進路を振り返ってみると、へそを曲げた台風さながら、くるくると、いびつな黄金らせんを描いている。




私は基本的に、旅の収穫を期待しない。どちらかというと、観光マップからこぼれてしまう裏路地や、手入れの行き届いてない森の小道や、漂流物が流れ着いたままの手つかずの砂浜で、私的な種拾いに没頭する。他人からすればまったく価値のない風景の貯金に、時計の針を忘れていそしむ。

いつか作品のどこかで使ってやろうなどと、ケチな思惑は御法度だ。それらはいったん、一つ残らず、広大な形而上の湖に放り込まれる。ぶくぶく、ぐつぐつ、長い時間をかけ、暗い暗い水の底で醸(かも)されていく。
そして忘れたころに、ぷかりと浮かび上がって水面を揺らし、しずかに言葉なく、私に語りかけてくる。詩や物語の始まりの一文として、あるいは色鮮やかな風景の一枚絵として。

とば口を形作り、役目を終えてほどなく、それらはほころび、霧散し、昇華していく。昇華することで初めて、私にとって未知の、祝福を告げるあらたな石の聖堂がそこに築かれる。
流した汗と、たしかな手ごたえは、やがて消え失せ、訪れる者もいつしか途絶えるが、悲観はない。日付を忘れた物語の森のずっと奥、石の聖堂は誰かにとって、ときに懐かしい友にも勝る、温かなよりどころでありつづける。


2022年6月23日~6月29日 
風景のしおりたち