2015年12月25日

高田宏先生との思い出

2015年の1124日、高田宏先生が亡くなったことを、インターネットのニュースを通じて知った。私にとって、初めての紙の本が出版される、二日前のことだった。

高田先生とは、2012年度の、小諸・藤村(こもろ・とうそん)文学賞の授賞式の日、一度お目にかかっただけで、個人的な付き合いはない。なので正直なところ、思い出と呼べるほどの色鮮やかなできごとはないのだが、当時のことを、少し振り返ってみようと思う。

小諸・藤村文学賞の授賞式は、毎年8月の終わり、島崎藤村の忌日に合わせて、前日の21日、長野県小諸市で行われる。その受賞者の一人として、私も招待されたのだが、乗り換えのあれやこれやで、たしか小諸の駅に着くまでに四時間近くかかったと思う。
私の暮らす海辺の町から東京まで、鈍行で二時間、そこから北陸新幹線に乗って軽井沢まで一時間、お世辞にも絶品とは言いがたい、真っ黒な出汁のうどんをすすり、小諸行きの電車をのんびりと待つ。

ほどなく電車がやってきて、横並びの二人がけのシートに腰を沈めたのだが、まあ当然ながら、田舎町のローカル鉄道であるので、乗客は多くない。四人一組のボックス席に、ちょっとした王様気分でくつろぎつつ、スピーチのおさらいを頭の中で始めたのだが、発車間際、半袖シャツを着た小柄の、白髪頭の老人が、いくらかひざをいたわる足運びで、ふいに姿を見せ、何の迷いもなく、私の向かいの座席のへりに手をかけたのだった。

どうやら、座席をぐるりと回転させて、2列シートの並びをこしらえたいらしく、ひじかけをあれこれいじって首をひねり、足踏み式のペダルがないか探っているのだが、すでにそのときには、私はその老人が、高田宏先生であることにしっかり気づいていた。しかしながら、挨拶はいったん先に押しやり、いっしょになってその「座席問題」に取り組むことになった。
もちろんこちらから名乗りを上げ、挨拶をするのが常識的な行動だろう。しかしながら、高田先生には、2列にしたいわけがそこにあったわけで(乗り継ぎでいささかくたびれたのか、それとも車窓からの風景を横目に思索にふけりたかったのか、あるいは選考結果の言葉を一人きりでおさらいしたかったのか)、ほんの少し心苦しかったのだが、ひとまず地元民の空気をよそおい、その回転作業に加わることになった。

おれいの言葉とともに、そうして高田先生は、私の前の座席に腰かけ、すっきりと刈り込んだロマンスグレーの白髪頭をほんの少しのぞかせ、ともに小諸に顔を向けて、同じ時間を進み始めることになった。五分、十分とすぎても、舟をこぐこともなく、ページをめくる音も聞こえないことを、耳をそばだてつつ確かめていたのだが、こうなるとどこで挨拶をするべきか、あらためて考えてしまい、場合によっては「無礼者」呼ばわりされても不思議ではないので、残り半分の行路をすぎたあたりで、意を決し、腰を上げて前の座席のそばにまわり込んだ。

「失礼ですが、高田宏先生ですか」
「ええ」と、いくらかいぶかしげに、めがねごしの目を少し見ひらく高田先生。
「本日表彰式でお世話になる、森水陽一郎と申します」
「ああ、ええっと、作品名は……」
「『五日間のお遍路』の」
「ああ!」と、ほんの少し上体をのけぞらせ、その反動でも利用するように、高田先生はさっと右手を差しのばす。私が握手に応えると、高田先生は祭りばやしを聞きつけたときの子供の笑顔で、「いや、あれはいい作品だった。よく書けてた」と、握手の手をゆるめず、それからちらりと、ちゃめっけたっぷりで、そばの座席のひじかけに目をやる。そういえば、何かあったぞとでも言いたげに。
 握手がほどけたところで私は言う。「先ほどは失礼しました。もしかしたらお疲れではないかと思いまして」
「いやいや、大丈夫。たしか、千葉だったね」
「はい」と、私はひざを落としたまま答え、海のそばの町の名前を伝える。
「ああ、風のいいところだ。たしか鴎外の別荘があったような」
「はい」と、私はその博識に、驚きを隠すことなく答える。

そこから話は、安房(あわ)の国を舞台にした『大菩薩峠』へと飛躍したのだが、残念ながら私は、名前こそ知っていたものの未読で、またそれを言い出すこともできず、ただただ聞き役にまわった。といっても、時間にして十分足らずで、一段落したところで私は背後の座席に戻ったのだが、それからもたびたび、高田先生は背後に顔を向けられ、『五日間のお遍路』に出てくる清澄寺の千年杉について、また、軽井沢や小諸の町の移り変わりについて話された。

やがて電車が小諸駅に到着し、私は高田先生の「おつき」のような格好で、ご一緒に歩かせていただくことになった。しかしながら、駅にエレベーターはなく、線路をまたぐ陸橋を移動することになったのだが、その下り階段で、高田先生はなかなか苦労された。脇の手すりに手をかけ、長年の友であるひざをいたわりつつ、一段一段、慎重に下りていくのだが、私は失礼にならない範囲で、何段か下に先回りをし、もし転ぶことがあってもいつでも腕を差し出せるよう、かなり気を張ってその歩行を横目に見守った。
ほどなく階段を下り終え、ふーと一息吐いて、私の肩をねぎらうように、ぽんと叩いたその感触を、いまでも鮮明に覚えている。

そうして、駅のそばの会場で表彰式が始まり、市長や市議会議員などの挨拶のあと、高田先生がマイクの前に立ったのだが、こう言っては失礼だが、先生の話し方は、いわゆる「おしゃべりのプロ」のそれではなかった。ときどきつっかえもしたし、耳に心地いい詩的な表現を差しはさむこともなかった。しかしそれがかえって、先生の人柄、言葉を大切にしてきたその姿勢を、端的に表しているように思え、ほんの一瞬ではあったが、その心根の部分を垣間見ることができたような気がした。

四名の選考委員のうち、エッセイストの神津良子さんは都合により欠席、森まゆみ先生は作中に出てくる食べ物の描写にふれて下さった。よく絵が浮かび、ちょっとした映画でも見ているようだとも評して下さった。それ以上に印象的だったのは、山口泉先生の選評だった。
持ち時間をできるだけ有効に使うため、ほとんど途切れなく、それこそ言葉が湯水のごとくその口からあふれてくるのだが、そこに私の作品についての感想は一言もなかった。もちろん最初は、胸の奥にうっすらとしたもやだまりができたのだが、すぐに山口先生のとられた行いが、別の意味を含んでいることに気づかされた。

受賞者は、中学生、高校生、そして成人の部と、3部門に分かれている。そして佳作の入賞者も含めると、その数は二十名以上にもなる。しかしながら、佳作の受賞者は、その後作られる作品集においても、基本的には個々の選評は掲載されない。そして小諸までの旅費は、すべて実費となる。
おそらく山口先生は、時間とお金をかけて全国から集まって下さったその方たちに向けて、かぎられた時間ではあるが、自分の出来うる最大の謝辞を、選評というかたちを借りてお返ししているはずなのだった。そしてそのようなエクスキューズを一切口にしないところに、決して到達できない、山口先生の人間としての大きさをあらためて感じるのだった。

表彰式終了後、記念撮影のために高田先生の隣に腰かけることになり、スピーチについてのお褒めの言葉をいただいた。そして、私にとっては先生からの最後の声かけとなる一言を受け取ったのだった。

「また、書いてください。待ってますから」

残念ながら、その約束を果たせないまま、先生は旅立たれてしまった。献本の準備をしていた最中の、突然の訃報だった。時間にすると、ほんの数十分しか関わりのない間柄ではあったが、私の中でその時間は、なかなか言葉では言いあらわすことのできない、特別な意味を持っている気がする。あの日見た小諸の光や頬をなでた風に、おそらくその答えは隠されている。

いまはただ、先生が軽やかな足取りで、いい風に吹かれつつ歩き始めたその後ろ姿を、背筋を正して見送ることしかできそうもない。